1940年代末、ニューサウスウェールズ州立音楽院の校長であったユージン・グーセンスは、大型舞台装置を設置できるような大型劇場をシドニーに建設すべきだと主張し、政財界の要人を説き伏せるべく奔走した。シドニー・オペラハウスの実現は、グーセンスの努力によるところが大きい。当時大型の舞台装置を設置できる劇場はシドニー・タウン・ホールがあったが、十分な大きさがあるとはいえなかった。1954年、ついにグーセンスはニューサウスウェールズ州首相ジョゼフ・ケイヒル(Joseph Cahill)の支援を得ることができ、ケイヒル首相はオペラ専用劇場のデザイン案の公募を行った。
現在オペラハウスはシドニー市街北部の岬、ベネロン・ポイントの突端に立地しているが、ここに劇場を建設することにこだわったのもグーセンスだった。ベネロン・ポイントにはかつてマッコーリー要塞(Fort Macquarie)があり、1901年以来要塞跡地には路面電車の車庫が建っていたが、グーセンスはここをオペラハウス用地にしようとした。ケイヒル首相はシドニー中心部の北西に位置するウィンヤード駅周辺を希望していたが、グーセンスに押し切られた。
ケイヒル首相が組織した建築設計競技(コンペ)には世界から233件の応募があった。この中から当時無名だったデンマークの建築家、ヨーン・ウツソン(Jørn Utzon)の設計案が選ばれ、1955年に基礎デザインが決定した。ウツソンの描いた帆や貝殻の群れを思わせる複雑で有機的なデザインは一次選考で落選していたが、審査委員だった建築家エーロ・サーリネンがこのアイディアを気に入り、最終選考に復活させ強く支持したとされる。ウツソンは1957年シドニーに到着し、建設の指揮を執ることとなった。
ウツソンの苦闘 [編集]
ベネロン・ポイントにあった電車車庫は1958年に取り壊され、1959年3月にオペラハウスの着工式が行われた。建設計画は三段階からなっていた。第一段階では台壁の建設が、第二段階では建物を覆うコンクリート・シェル構造の建設が、第三段階では内装の工事が予定されていた。工費は350万オーストラリアドル(700万米ドル)、完成は1963年を予定していた。
工事の第一段階(1958年-1963年)は1958年12月5日に始まり、台壁の工事は1959年5月5日にシビル&シビック社によって着手された。州政府は、資金調達や市民の意見が工事の障害になることを恐れ、工事の開始を早めさせた。しかしこのとき、ウツソンのデザインをどう実現するかという構造設計の問題が起こっていた。特に帆のようなコンクリート・シェルはこの時点では放物線(パラボラ)の断面をした案であったが、どのように設計してシェルの重さや海風の圧力を支えるかが決定しておらず、模型を使った風洞実験にも失敗していた。
1961年1月23日の時点で、雨天続きの天候、正式な建築図面の完成前に着工を急がせたこと、工事契約の変更など予定外の困難が起こったことで、工事は47週もの遅れが発生していた。台壁の工事は1962年8月31日に完成した。
工事の第二段階(1963年-1967年)では、建物の外壁および屋根となるシェルの建設が始まった。コンクリート・シェルは当初の案では大小の放物線の形が連続する予定になっていたが、構造設計家のオヴ・アラップ(Ove Arup)率いるオヴ・アラップ社(Ove Arup and partners)はあらゆる補強方法による放物線案を試した末、この案を実際に建設する解決策はないと結論付けた。
シェルの施工方法をめぐって、放物線形状に代わってさまざまな案が検討されることになった。1961年半ば、ウツソンは構造設計家たちに自分なりの解決案を手渡した。これはシェルをすべて同じ半径の球面の組み合わせによって構成し、全体にリブ(肋骨材)を入れて補強するものであった。この案は構造設計家の賛同を得たのみならず、工期を当初の予定よりも大幅に削減するものであり(球面を構成するコンクリート板は、あらかじめ工場で成型し現場で組み立てるプレキャスト方式にしたため、屋根の10万枚のタイルを高所作業ではなく地上作業で貼り付けておくことが可能になった)、さらに現在シドニー・オペラハウスといえば思い出す特徴的な鋭い形状の屋根デザインを生み出すことにもなった(この屋根の構造は、オレンジの皮を剥いた形から発想されたものである、とも言われている)。
オヴ・アラップ社はシェルの構造設計をついに完成させ、シェルの建設を監督した。オヴ・アラップはこの構造設計で、後に世界に名をはせることとなった。1962年4月6日の計画では、シェルは1964年8月から1965年3月までの間に完成することになっていた。しかし工事は遅れ、1965年にはシェルの完成を1967年7月に見込むこととなった。
第三段階(1967年-1973年)の内装工事は、ウツソンが1963年2月に自分の事務所を全部デンマークからシドニーに移転させた時点から始まった。ウツソンは当時、シドニーに拠点を置く独創的な合板業者ラルフ・シモンズとともに、合板を利用した内装の設計を行っていたが、劇場の音響など問題は山積していた。しかし1965年に選挙で州政府の顔ぶれが変わり、新しいロバート・アスキン首相の内閣は工事費が当初予算より膨れ上がったオペラハウス計画は公共事業省の管轄下に移すと宣言した。1965年10月、ウツソンは公共事業相のデイヴィス・ヒューズ(Davis Hughes)に対し、第三段階工事の完成予定日に向けた自らのスケジュールを提出したが、ヒューズはウツソンに対する内装試作品の制作許可を保留にした。
この事件をきっかけに、ウツソンは計画からの引き上げを強いられることになり、1966年2月28日にオペラハウスの設計者を辞任した。ウツソンは、ヒューズが彼に対する一切の支払いを拒否したこと、協力関係を築けなかったことが辞任の原因だと述べ、地元や建築界に騒動を起こした。1966年3月、ヒューズはウツソンに対し、建築設計者からやや格下げした「デザイン建築家」の地位を打診し、新たに就任した建築設計者たちの委員会の下で働くよう要請したが、彼はオペラハウス建設の監督の権限のない地位への就任を拒絶した。このとき以来ウツソンは二度とオーストラリアの地を踏んでいない。
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当初700万ドルを予定していたオペラハウス計画の費用は、1966年10月の時点で2,290万ドルに達していたが、これは最終的な費用の四分の一にも達していない。